2019年5月16日木曜日
学習と練習
先生から武術を学ぶ時にその授業中、当然練習という形を取るわけですが、ここで少し考えるべき事に、学習と練習の違いがあります。私自身そういった意識の礎となるものは、私が一番最初に学んだ楊継生先生の頃にあったように思います。楊先生は家伝が査拳で何福生先生や馬頴達先生などの先生方にもそれぞれ形意拳や通備拳などを学ばれた人です。初心者だった私は武術基本功と十路弾腿から学び始めたのですが、諸事情から私はあまり熱心ではなく、とりあえず先生から言われたメニューを消化するだけでした。しかし、他の学生が練習するのを見たり、先生の話を聞いたりしているうちに、今学んでいる基礎の部分をしっかり身に付けようと気持ちを改めました。それから新しいものも学びましたが、私が着目しよく練習したのが最初の頃に学んだ十路弾腿です。先生の話によれば、十路弾腿(おそらくその時学んだ練法)は功夫を練るもので、先生が子供の頃にはその弾腿だけを休む事なく連続で30分程は大量の汗や涙を流しながらでも父親から練習させられた、という話を聞いて感ずるものがあり先生の授業とは別にそういう練習をするようになりました。その当時はまだはっきりと意識はしてなかったのですが、後に馬先生に学び始めた頃から、馬先生自身も父親の馬鳳図先生の下での練習以外にも自主練をしたという話をされていた事もあり、私にとって授業は学習で自主練こそが練習であると解釈していました。馬先生は武術のレベルの5段階として、「会」「対」「好」「妙」「絶」と言われた事がありますが、「会(できる)」「対(正しい)」「好(よい)」までは先生が教える事はできますが「妙、絶」になると、教えられて到達するというのとはまた別の類のものではないかと私は考えます。しかし、どのレベルでも本人が習得出来なければ、次のレベルには進めません。そして、その作業(練習=自主練)が、授業(学習)とは別のものであると認識し、もし本人が学んだという事に満足するのではなく、上達することを望むのであれば、先生の授業だけで練習をしたつもりになっていては、上の方のレベルに行く事はできないと思うのです。
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