老通備研究会
2020年6月17日水曜日
老架と新架
当研究会では現在、私が馬賢達先生から直接学んだもの(比較対照として新架)を主体に学生に教えているのですが、歴史的にいえば老架(比較対照として私が白鴻順先生から学んだもの)が先にあり、当初その流れに沿って老架から新架を教えるつもりでいました。元々どちらも教えないといけない訳ではなく、私のベースである新架の方を教えればいいのですが、老架には通備拳原初の風格を有しているところがあり、それは例えば套路における構成される招式の違いならば、どちらを学習しても、練習効果は同じであると思うのですが、例えば私が以前上げた動画の金剛八式の「衝捶」では「馬歩」「半馬歩」は老架、「虚歩」は新架で学んだものを、段階的に進んで練習できるように私がまとめたものなのです。実際他の八極門でもこのような練習段階で進めて行くところもあるようで、老架と新架の組み合わせによっては、このような段階練習とすることができるので老架を適材適所でカリキュラムに組み込むことにして、研究としてその他のものを学習するという現在のスタイルにしたのです。そして老架と新架はどちらも馬賢達先生伝承のものなので、最終的にどのように練習するかは学生個人の練習として学生自身が決めるのが良いと思っています。
2020年3月23日月曜日
八大招
私が馬賢達先生の通備拳を「老通備」と位置付けしている理由は以前書いた通りで、それは自分自身がこれまで学んだものと他の系統(の一部)とを比較しての私見によるものですが、通備拳の各系統全体においてそれが当てはまるかどうかというのも確証が持てないうちに仮称的に当研究会の名称としました。ここで確認しておきたいのは、賢達先生もそうである様に、穎達、令達、明達各先生方もある時期の学生には、西安体育学院における最初期の学生である白鴻順先生達が学んだもの(当研究会におけるもう1つの意味での老通備でこの研究が主になる)とあまり変わらないものを教えていたかも知れないという事です。更に言えば馬鳳図先生には賢達先生の先輩に当たる学生達もいたわけで現在のところ私がそういった古い形の伝承を確認出来ていないだけなのです。馬先生の系統の方が通備拳の初期の頃の形を残していると思われる理由の一例として通備八極拳が大開大合の身法を用いているのを除けば他流派の八極拳と大きな違いを感じないという所にあります。そういった様に他流派の八極拳を眺めていると長春八極拳の「六大開」と「八大招」に幾つか通備八極拳の「八大招」の基と同じと思われるものがあるのです。その事を踏まえて通備八極拳の「八大招」の来歴について私の考えるところがあるのですが、今のところ検討する材料が少ないため、何れ機会があれば書きたいと思います。
2020年1月21日火曜日
トライアルアンドエラー
私は比較的長く中国武術に携わる者として、これまで学習や練習を通じて学んだことや気付いたこと、考えたこと等をこのブログで綴り、その内容は一個人の見解であるので賛否あると思いますが、これが誘い水となり読者の方々が中国武術を学ぶ上で何かの参考になればと考えています。元々私は人に教えたり何かを発信したりすることは考えておらず私ひとりのものとしてしか学ぶことを考えていませんでしたが、いつの頃からか馬賢達先生に教えていただいた通備拳を正しく伝えることが、馬先生への恩返しになるのではないかと考えるようになりました。私自身、今現在も正しい答え(馬先生から教わったもの、代々伝承されたもの)を求め試行錯誤を繰り返している一学生であり、その答えを知っている馬先生が目の前にいた当時を振り返れば、知りたいことや疑問があれば時には直接質問したり、又ある時は授業中に、馬先生に見てもらいたい動きを試してみて馬先生からの言葉を待つなどちょっとした策を講じていました。しかし、それで全ての疑問が解けるとは限らず、そういう場合は結局自分で残りの疑問や新たに出てきた疑問の答えを試行錯誤の中で見つけて行くということになるのですが、当時と違い同じ試行錯誤でも今では武術関連の情報は甚だ多く、その解決策をそこに求めるとその情報から得た知識がアドバンテージになり得る反面、本来、目の前にあるはずの答えが、その知識を取り入れて全く違う答えになってしまうこともあり得るのです。それは私自身が経験したことであり、それを経て今私が思うのは、先人達のように先生から授かったものを繰り返し練習する中で、自分の内面から答えを見つけることが本来の習得であり、それが次代への正しい伝統の継承となるということです。
2019年12月1日日曜日
放鬆
武術において「放鬆」は重要視される事ですが、身体各部が放鬆状態でなければ、動きが制限されるばかりか、「勁」を到達点まで伝える事ができなくなり、通備拳においては「放長撃遠」を可能にする為にも必要な事です。授業中、馬賢達先生によく「放鬆しなさい」と注意されたのが、今でも鮮明に記憶に残っています。「放鬆」に近い言葉には「脱力」や「リラックス」があり、この「放鬆」を説明する時にこれらの言葉を使う事があると思いますし、実際、私もこの「放鬆」を西洋人の学生仲間に説明する時に「リラックス」という言葉を使いましたが、それぞれの言葉の本来の意味は兎も角、重要なのは身体内部の感覚で、最も適した日本語訳は「緩める」が妥当だと思います。では具体的に何を緩めるかと言うと筋肉(の緊張)を緩めるのですが、私は瞬間的な集中によって発せられる力の類いのみならず、歩法、身法等身体の運用に類する力も「勁」と解釈しており、この「緩める」とは私の得た感覚では全く力が抜けきった状態ではなく、余計な力を抜いた、或いは力みをなくした状態で、身体内で作用している「勁」を阻害しない状態にするための要領が「放鬆」なのです。「勁」とは揉練を経た力、つまり鍛錬でよく練られた力の事で、例えば突きを出す時に身体のどこかに力を込めてその力を用いるのは力む行為で先天的或いは感覚的(自分で力強く感じる等)なものに由来すると思われ、長い歴史の中で経験的、理論的、技術的に構築されたものの一つである力み等の濁りのない後天的な力が「勁」であり、「放鬆」と「勁」は不可分の関係で、「勁」という概念のない他の武術、武道さらに広げるなら身体運動全般においても、身体運動を阻害する体の強張りを「緩める」ことは上達の鍵であり、要訣なのです。
2019年10月18日金曜日
一長一短
身体運動全般、特にスポーツ等高いパフォーマンスが要求される運動では、より柔軟性は重要になってきますが、武術においても例外ではありません。武術の視点で見た場合、主な効能では難度の高いパフォーマンスの向上、怪我のリスクの軽減等が挙げられますが、その反面、多分に私の経験や観察による主観的考察では、特に高い柔軟性を持った人に陥りがちな事として発力の爆発力不足が、往々にして起こり得るという事です。通備門では下盤(腿法)の準備運動・基本功として直擺性腿法、上盤・中盤の通備拳基本功(左右単劈手等)の段階から爆発力を求め、直擺性腿法のみならず通備拳の身法(最大最小の運動)を身に付ける基本功でも高い柔軟性が必要になってくるのですが、例えば正踢腿をする時、柔軟性が高い人は容易に最も高い位置に蹴り上げる事が出来、そうでない人は同じように足を蹴り上げるのに相当の爆発力が要ります。その為、柔軟性の低い人は自然と爆発力がないと蹴り上げられないという事になるのですが、柔軟性の高い人は爆発力を必要とせずともそれなりのスピードで高く蹴り上げる事が出来るので、その感覚を知る事なくただの柔軟運動になってしまっている事が少なくない様です。これは上・中盤の功夫(擰腰等)でも同じで、当然全ての人に当てはまる訳ではないのですが、柔軟性の高い人は折角の好条件(素質や努力で得たスキル)がある種の練習を容易にさせ、必要なもの(この例では爆発力=発力)が無いという可能性が出てくる一方、柔軟性が低いという不利な条件が必要なものを自然と身に付けさせるという様に、どのような条件でも大きな視点で見れば一長一短の面があるのです。武術を志す人達は各人十人十色の好条件を持っていますが、容易にある事ができてしまうと、慢心してその事を深く追求せず惰性で練習しがちになり、折角の好条件も活かすことが出来ません。各人が様々な目的や目標を持って武術に携わってますが、もし少しでも今よりも高い境地を目指し追求するのであれば、今回例に挙げた基本功である正踢腿1つでも例えば柔軟性という長所短所それぞれの条件が違うスタートでも、その先には馬鳳図先生がなし得た正踢腿の上乗の功夫に到達する事も出来るでしょう。
2019年8月27日火曜日
武術家
中国武術の効能価値として大きく分けると「格闘」と「養生」の2つの方面が挙げられますが、一般的に「武術家」とは、格闘術を身に付けている人、或いは訓練している人を指していると思われます。「養生」に関しては運動による健身(フィットネス)、体療(ボディセラピー)、表演(競技参加)、それに伴う精神状態の調整、活動的な生活等の効能が挙げられますが、時代の変化と共に武術の有り様も変化してきているとは言え、「武術家」となるとやはり「格闘」の面が主になるでしょう。この「格闘」に関しても護身、散打(競技参加)等の効能が挙げられますが、馬賢達先生の経歴で19歳の時に並み居る強豪が参加した散打大会で優勝(短兵でも優勝)という輝かしい成績を残されてますが、私は馬先生の「武術家」としての実力を表しているのは、国内が内戦や文化大革命などで騒然としていた時代を生き、その中で数多くの実戦を経験されてますが、ある書籍で紹介されている憲兵数名との格闘でその数名を打ち倒したおり、その1人が拳銃を打ったが運良く当たらなかった、というエピソードにあると思います。このエピソードでは相手が複数、武器所持という不利な状況で戦ったのですが、これは基本的に同じ条件、一定のルールで戦う散打(競技)とは違うスキル、元々武術とは相手も自分も同じ条件、一定のルールで戦うことを想定されたものではないと考えれば、冒頭で述べたことを補足する形で「武術家」とはこういった不利な状況にも対応できるスキルを持っている、或いはそれを前提に訓練している人だと思います。更にそのスキルを身につける過程での自分の技量の確認、或いは武術を学ぶ目的それ自体としてなど、散打競技や套路競技に参加(そのための練習)をする事は、その人の武術自体に深みを与え豊かなものする事が出来るのではないでしょうか。
2019年7月18日木曜日
活動再開
今月、約1年半ぶりに老通備研究会の活動を再開しました。正確には当会の前身となる他県への個人教授の再開になるのですが、現在私の唯一の学生であり中国留学時代からの友人との練習は非常に楽しい時間でした。久しぶりだった為か予定通りのスケジュールで進まなかった事が課題になりました。
授業の様子 (他の動画もYouTubeにアップしてます。)
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